特集

ぐるなび

東京都内の“おいしい”探訪記

2017.7.12

「深夜の2時過ぎまで働いています。熟成を極めるためにはそこまで手間がかかるのです」

すし 㐂邑 木村康司

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美食をエロティシズムとしてとらえるのは、あまりにも安易だと思う。食事の後、男女が深い関係になることを期待するのは、状況によっては仕方がないとしても、美食はそうした感情をかき立てるために存在するのではない。

ところが世の中には、エロティカという言葉が一番似合う料理が存在する。都心から少し離れた二子玉川にある「すし 㐂邑(喜邑)」は、熟成寿司の草分けとして知られている。お任せで2万2000円〜(税別)のコースを食べに、寿司店がひしめく銀座から車を飛ばして来る客さえいる。一体、どこがそんなに魅力的なのか。

御主人の木村さんは、はっきりと言い切った。「エロさを追求しています」口の中に含んだときの官能的な旨さのことを指していると考えるのが普通だろう。しかし、実際にカウンターの席に腰をおろしてみると、単純に食感だけでは語りきれない五感を刺激する体験であることに気がつく。

エロという言葉から下世話なものを想像してはいけない。知的でまさに芸術へと昇華したエロティカこそが、「すし 㐂邑」の真骨頂なのだ。

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夕焼け色に染まるカニの塩辛

寿司の前に出てくる料理の中で、一番と言ってもいいほど人気があるのが「ワタリガニの塩辛」である。まるで夕焼け空のようだ。オレンジ色を基調に、さまざまな赤味を帯びたものが混じり合っている。カニの脚は控えめに姿をのぞかせる。味は想像できない。初めてのデートのときのように、ドキドキしながら箸を手にする。

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まずはやわらかな小片を口に運ぶ。さわやかな塩味が口の中一杯に広がる。酒飲みであれば、燗酒が欲しいと瞬時に思うだろう。酒飲みでなくても、複雑な旨みをお茶ですぐ流してしまうのではなく、いつまでも味わっていたいと思うに違いない。ここまで第一印象が力強いメニューは滅多にお目にかかれない。

少し落ち着いてから、もうひと口、少し大きめのものを味わう。塩味が口の中からすーっと引いていくと、ほのかに木の香りがする。正体はブランデーだ。木村さんの説明を聞くまで全く分からなかった。

作り方はかなりややこしい。生きたままの状態のカニを塩漬けにして、次に塩水を使って塩を抜く。さらに日本酒で洗う。胃袋、腸を別にして酒盗を作り、これに内子、カニミソを合わせ、ブランデーを入れて仕上げる。2年もの間、試行錯誤して完成した味だ。

韓国にはケジャン、中国には酔っぱらい蟹があるのに「なぜ日本にはカニを生で調理する代表的な料理がないのか」という疑問が、木村さんの挑戦の出発点だった。手間ひまをかけて生まれる複雑な味わいは、まさに日本的な一品に仕上がっている。

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